亀戸天神の藤棚が美しい頃、
千葉から館山への高速バスに乗ると
日当たりの良い斜面の木々にポツポツと
藤の花がかかっているのが見える。
葛は横に這い広がる。だから葛原はある。
が、
藤は高く木々をつたい上がり、枝垂れるもの。
藤の原は景色として、あるのか?
藤棚にしたてるのは江戸時期。
庭木の松に藤がかかるのは平安時代。
万葉集の藤の花は2つの距離で愛される。
愛しい彼女を思い出させるもの、頭にかざすかざしもの、
これは手に取る近さ。
ホトトギスに散らされる、あるいは水底に映る、
浦を漕ぎ巡る舟から見る、これは眺める距離。
そして、おおくは藤波と書かれ、水の気配がまとわりつく。
「藤原家家伝書」に藤原の姓は、
鎌足の生まれた大和国高市藤原にちなむという。
その地はかつて、衣通姫が住んだところ、
清らかな水が湧き出る井戸の上を藤の大木が覆っていたから
「藤井が原」略して「藤原」と呼ばれた。
時代は下って、鎌足の頃にもその藤はあっただろうか。
吉野金峯山寺蔵王堂の右後に、皮を剥いても一抱え、
梨とも思えぬ太く高い梨の柱がある。
そのように、今の私達に思いも及ばぬ
大樹と藤の古木があったとしたら。
梢の子躍り満樹の藤揺るゝ
中村草田男
時代の違う俳句だけれど、
ここにあるのは藤の花の海原を渡る波。
その大樹を鎌足と一緒に見た記憶が
天智天皇に、あったとしたらと思う。
ちなみに、衣通姫は
姉の夫、允恭天皇に妃になれと7回言われて7回断ったら、
天皇の命を受けた中臣烏賊津使主が庭で土下座で
隠し食いしながら7日のハンストパフォーマンス。
使者を殺すわけにはいかず妃になった。
が、
苛烈な性格の姉の怒りを買い、
皇居に入れず、藤原に住んだ。
烏賊津使主は、その後も衣通姫の警護をし、
名代として藤原部をおさめ、私し、
力をつけていったんだそうで。
後の藤原氏の遣り方の祖型があると言えるかも。


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