講座の資料の「上の御機嫌を守らへ、酒をも強ゐ申すべき時は強ゐ、控うべき所にては控えなど、心遣ゐして、…世子、かやうの所、ことに名人なりとて、みなみな褒美あり」
(『申楽談義』)の説明で、お上が謡が聴きたいと思い「謡いを」の「う」を口にした途端、世阿弥はその場にふさわしい謡をうたいだせたというお話があった。
武術ではこういう技術を「出を取る」と言う。攻撃の動作を目で見て反応するのと、
攻撃をしようとする意識の起こりに反応するのとでは
何秒か違う
攻撃をしようとする意識の起こりが分かれば相手に攻撃させないこともできる
「出を取る」を技術というからには、技術を磨く方法もあって、
その一つが瞑想。世阿弥は参禅していたし、
子供の頃から義満や義満に忖度する権力者の毀誉褒貶の中に
観世一座の命運を背負って日々真剣勝負していた訳で
「出を取る」能力は日々磨かれていったんじゃないか
そして「出をとる」技術とセットになるのが「空間把握」
「出を取る」人は相手が自分の一部になる
この時支配権を持っているのは青の方
で、『出を取る」を複数に対してする時「場を取る」になる
ここで支配権を持つのも青の人
人は形がくっきりしてるけど、空間はひろい
だから、意識の範囲を自分で区切る。
じゃないと情報量が多すぎて実用にならない。
安全じゃない。
次はそういう感覚の人が知らない所に流されたら何をしたいかです
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