奈良時代から戦国時代まで、非業の死を遂げた人の祟りをどうするかは国家事業だった。
(「怨霊とは何か」山田雄司著による)
怨霊も、祟りも、生き残っている側の人間の感情の問題だ。祟ると思われた方はたくさんいるが、天神様は格別。
流され死に、死後祟り、厚く祀られて、守り神になった。
大事な事だからもう一度言います。
守り神にまで成り上がったというのが特別。
というわけで、鎮魂の大成功例だから金島書に登場した、
のかとおもったが、それだけではなさそう
金島書の中では北野の天神、
今は受験の神様、学問の神様
人であったときは菅原道真公、903年に太宰府で左遷されたまま死んだ。
又の名を天満大自在天神。
清涼殿の落雷事件で火雷天神、
時平、醍醐帝の死、地震、飢饉、火事、疫病、純友、将門の乱、前9年の役をおこして、
太政威徳天と、やらかした祟りが増えるたび、神名が増え位が上がり、
死して90年で、太政大臣を追贈されて、善神となった。
されば北野の御製にも、「かの海に金の島のあるなるを その名を問えば佐渡と云也」この御神詠もあらたにて 妙なる国の名も久し (金島書 北山)
薪の神事もこれなるや。されば北野の天神も「名は大唐に留まり、会は興福に収まる」との御願文もあらたにて十二大会の初めにもこの遊楽をなす事の当代の今に至るまで 目前あらたなる神道の末ぞ久しき(金島書 薪の神事)
この2つが、金島書に北野の天神が出てくる部分。「あらたにて(神の御利益がはっきりわかる)が3つもあってどう訳そうかとおもったが、北野の天神と「あらたにて」はセットで出てくる。悪にも強ければ善にも強い、お参りする人が正直で信仰心厚ければ確実に御利益下さる神だった。
そして、佐渡島の本地垂迹的な由来と、猿楽から始まる興福寺の法会は素晴らしいから永遠に続くよ的な言葉の裏付けとして、輝くばかりの御利益賜る北野の天神がいる。
1392年1月明徳の乱で足利義満は、山名氏をほろぼした。
北野天満宮の側が激戦地。都の四分の一が人馬の死骸で埋まる惨状。
義満は相国寺で万部経会を行う。自ら法華経7部を写し、禅僧1 000人、天敵味方区別なく供養する大施餓鬼を行った。(「怨霊とは何か」山田雄司著による)
この時世阿弥36才、観阿弥が亡くなった8年後
参加してたよね。
その9年後1401年、北野天満宮の社頭に「北野経王堂願成就寺」という
どでかいお堂を建立し、10日の万部経会と経典書写で供養、
この行事は「北野経会」と呼ばれ、庶民の楽しみであり、
足利幕府の大事な行事として、応仁の乱まで行なわれた。
北野の天神=北野経会=義満=禅僧1000人の読経=峯とよむ声=敵味方共に供養
世阿弥のおもいでなんだと思う
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