これもずいぶん前の事、
京都旅行の散歩の道すがら
楽美術館の特別展で楽歴代の茶碗をいっぺんに見た。
お茶を嗜まないが、日本のきれいなものを見に行くと、大概お茶碗がある。
近代の美術コレクターは、おおむねお茶マニア。
なので、そこでであうお茶碗は、わからなくても美しい。
さて、その美しい茶碗の中で、
シンプルで格別なものとして、であったのが楽茶碗。
形は碗と筒、
その上、色も茶か黒。
一子相伝で、代々の当主は次代のための陶土と釉薬の石を確保し、
妻は石をすりつぶして釉薬をつくる。
そんな風にして、安土桃山の時代から、
今に至るまで続いた楽家の茶碗を、
一代一碗でみると、それぞれ素敵で、
また、いっぺんに拝見できたから気付いたこともあった。
この時の旅のどこかで、
聚楽第の建設中、通りかかった利休(たぶん利休)が、
束ねた瓦を屋根に投げ上げたというエピソードを拾った。
楽の初代、長次郎の茶碗以前の作品、
獅子を見るとよくわかるのだけれど、
彼の作品は強い生命力に充ちていて、
この方たぶん、凄く身体能力の高い人、
体力と集中力があって、腕っ節も強かったんじゃないか。と
後の代の洗練された、知的な、あるいは洒脱な茶碗と
比べるとそう見えたのだった。
どんなからだをもっているかが、
たとえば、スポーツという場面ではパフォーマンスと直につながる。
今回は作陶だが、それ以外のジャンルでも、
どんなからだを持っているか?
とできたものの質につながりがあるように私には見える。
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