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武士から兵隊

                                             鍬形惠斎 人物略画式 より模写彩色 

明治5年に学制 、明治6年に徴兵令が発せられる。

体操ってなんな?と伊沢さんがなやんでたのが明治8年


明治11年堺の和菓子屋に女の子が生まれ、

教育制度をかえたかいあって、みんな整列行進できるようになり、

明治27年に日清戦争。

明治37年には日露戦争。


明治37年、堺の和菓子屋の娘は、与謝野晶子となっていて、

旅順に出征する弟を思って、「君死に給う事なかれ」を書いた。

「君死に給うことなかれ」という有名なフレーズに続く詩を

身も蓋もなく要約すると

「商売が専門で.戦闘は素人なんだから、戦さに命を賭けるな」かと、



晶子の両親は幕末生まれ

江戸時代では「商人」は職業のくくりである上に、今と違って身分のくくり。

身分のくくりには「武士」もある。


晶子が生まれる16年前(文久3年)

横浜に上陸したFベアトが撮った

「護衛の士官」という写真(横浜開港資料館が持ってます)

に、12人の武士が写っている。

富士登山するオランダ総領事一行を警護中の、職業的スイッチが入っている状態の凄腕な方々。

この方々、実に剣呑で涼しい。

その剣呑さと身体が剣客であって兵隊さんではない。



晶子の親の前半生には、武に特化した方々が、社会の階層として.結構なボリュームでいた。

その人達は、身体つきも居ずまいも、商人とは別物である。

対するには、こちらは分を弁えてふるまわなきゃ危ない、おっかない

「武士」とは、そういう人達だというのが

晶子の親世代の商人には.体験としてあった。


親世代のナツメロは子世代にもなんだか懐かしいように、

晶子にもその感覚は伝わっていて

思わず、うちの弟、素人です。素人になにさせる!

というところもあったのではないかと思う










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