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「こうやるもんだ」の始まりは誰かの素敵な思い付き


一昔前、法事を始めて仕切ったとき、
何をしたらよいか皆目わからなかったので
一から十まで、近所に住む親戚にお世話になった。

お仏壇を掃除して、扉を外して、
伊予柑一箱、バナナ一箱、全部使って荘厳する。
伊予柑のオレンジ色、バナナの黄色
何とも華やかな仏壇ができあがる。

面白かったので、
話のついでにおかあさん方に聞き込みしたら
海の見える民宿の、先代のおかあさんに行き着いた。
これを始めたのは、
戦後、浜の景気が良い頃、
そのおかあさんの創意工夫をまねる人が次々居て、
それが30年続き「ここではこうやるもんだ」になったらしい。

それで、ここの八百屋さんの品揃え、バナナはとっても充実してます。

「こうやるもんだ」の始まりは
案外、誰かの素敵な思い付きというお話でした。






 

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