スキップしてメイン コンテンツに移動

(薪の神事)名無しの章  世阿弥の本願

 の名無しの章では世阿弥のやってきた申楽の意味が宣言されているように私には見えます。

ここでは水のイメージは遠い。

前の章「北山」で祝福された海原の水は、ここでは天に上がって雪と降り

翁の息が、とうとうたらりたらりらたらりあがり ららりどうの言葉になり、

唱和する声が重なり、滔々と落ちる瀧水となる。

それから、最後の千鳥の足跡が残る砂浜の向こうに海が静かに鳴っています


さて、『金島書』最後の名無しの章は、故郷奈良に戻ります

そのざっくり訳と、主語に当てはまりそうなのを探してみました。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

そもそも、よく治まっている時代の歌は、安らかで、楽しい。これは政治が穏やかであるから。だから歌は天地を動かし、鬼神の心を動かすというのである

「きさらぎの初申なれや春日山、峰とよむまでいただきまつる」 源俊頼(歌人、篳篥の名手)

2月の最初の午の日であることよ、春日山の峰に鳴り響くまで(神を)崇めもうしあげる

音楽や舞を奉じるのが昔からの神の祀り方であると言ってるのがこの和歌。


++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

春日山のてっぺんまで鳴り響くのは何か?

最初に思い浮かんだのは、若草山焼き。山肌の炎も、浮き立つ人等の熱と祈りも、峰をとよもすのは思い浮かべやすい。が、1月中に若草山を焼かないとよくないことが起こるという伝承が世阿弥以前からあったのでこれではない。


初午のお祭りは稲荷のお祭り、春日大社にお稲荷さんはおいでかなと調べたら、若宮おん祭りにご奉仕される大和士の精進潔斎所である大宿所に、春日大社の末社、大福稲荷神社があった。今も2月の初午の夕刻春日大社の神主さんが神事をなさっているそう

http://narabito.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-c941.html

 「春日大社大宿所と大福稲荷神社」鹿鳴人のつぶやき より


大福稲荷神社のある大宿所は、今、南都楽所のお稽古場にもなっている。世阿弥の文脈を辿ると、峰まで鳴り響くのは神事で奉納する音楽や舞。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 

「きさらぎや雪間を分けし春日野に置く霜月も神祭るなり」

2月には積もる雪に隙間ができる春日野に、霜が置く11月も神を祀るという(初午祭が五穀(稲も含む)豊穣を祈るもので、霜月祭は新嘗祭で稲の収穫を祝うもの)この神事が今も続くのは安らかで楽であれとお守りくださる神のお蔭

だから(世阿弥が)浄衣を纏って、毎年2月2日に興福寺の東金堂の追儺会に出仕して、謡う「翁」も、仏もきっとお受け取りくださるに違いない。そういうわけで、興福寺の西金堂、東金堂、両堂の御法会にもまず、申楽の舞や歌を整え、御治世が長く続くようお祈り申し上げ、国土は豊かに、人々は裕福に新年を迎え、年を重ねるよう祈る。薪の神事というのもこれをいうのです(申楽≒薪の神事?)

天満大自在天神(菅原道真)の願をお立てになった文章にも「名は唐で有名になり、法会は興福寺に心惹かれる」と霊験あらたかに仰っている。

興福寺の12の大きな法会の最初に猿楽をご奉仕するのが、今の時代になるまで続いたのは、目に見える霊験あらたかな神道の尊さで、この先も永遠に続くでしょう。

「これを見ん、のこすこがねの島ちどり、跡もくちせぬ世々のしるしに」

人はこれを見るだろう。佐渡に流された私(世阿弥)の後世までも朽ちないしるしとして、 

永享八年二月日  沙弥善芳(世阿弥の法名)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

法会のはじめ、申楽が場の位相を変え、仏へのご奉仕がつつがなく行われ、仏のご加護により世界は平穏無事に守られる、と。












お謡が場の位相を変える件。

昔になっちゃったけど、鵜澤光さんの道成寺の披きの時、前半の久さんも凄かったが、

観世のお家元が能舞台の真ん中に座って、謡いはじめたら

その場が、次々に梅の蕾が花開くところになった

物質的な変化は何もない、でも、空気感が変わった

若者へのはなむけなんだなと思った

後で話したら隣の人も同じ感じがしたらしい

不可思議

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

それから、ここでも北野の天神が出る。

興福寺は藤原氏の氏寺、藤原氏は菅原道真公を陥れたのに…

ですが、世阿弥の思い出の中の北野天神は違う意味を持つ

後ほど別に




コメント

このブログの人気の投稿

金書を読みはじめてみた5 「泉」 ここでシテが出てくる

「泉」の内容をざっくりまとめれば、 又、西の山本の泉という集落は、流された順徳院のいらした所。 順徳帝は前世の功徳で帝にお生まれになったのに、流罪になって 田舎の、屋根に羊歯がはえるあばらや、雨が降ればぬかるむ庭に暮らされるとはお気の毒 どうぞ心を澄ませて極楽往生の道をおすすみ下さい これに和歌が8首書きこまれて、イメージと意味が重層的になっている( 本文引用部分 ) ① 限りあれば萱が軒端の月も見つ知らぬは人の行末の空 (後鳥羽院、世阿弥は順徳院作として引用) ② 天離る鄙の長道 ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ(柿本人麻呂) ③ 夕立 のなごりばかりの 庭たづみ 日頃もきかぬかはず鳴くなる(順徳院) ④ 下くぐる水に秋こそ通ふらし結ぶ泉の手さえ涼しき (中務) ⑤ 人ならぬ岩木もさらに悲しきは美豆の小島の秋の暮れ (順徳院) ⑥ 樒つむ山路の露に濡れにけり暁起きの墨染の袖 (小待従) ⑦ 薪こる遠山人は帰る也里まで送れ秋の三日月 (順徳院) ⑧ 言うならく奈落の底に入りぬれば刹利も首陀も変わらざりける (高丘親王) ⑨ 蓮葉の濁りに染まぬ心もて なにかは露を玉と欺く(僧正遍昭) ①②で流人の感概、軒の月から遠い空、海から彼方の懐かしい故郷 ③④⑤は叙景、夕立からの水たまり、 そして地下からこんこんと湧き水、「涼しき」の語が出、 「悲しみ」とともに水量が増えて川 ⑥で山の樒、出家者と朝日、ここでも露 ⑦ で秋の山里、そして秋の月(月は寂かな心のシンボル) ⑧世間がいうには、地獄に落ちれば王も奴隷も変わらなかった。 と怨みの根をダイレクトに斬り ⑨濁らないで、怨まないで、「涼しき道」🟰極楽往生してね で、露がキラリ 歌を辿ると物語になってるように見える 何の物語か そしてね、 登場する9首7人の歌人のうち、流された又は冤罪を被った人が 御鳥羽院、順徳院、柿本人麻呂、高岳親王の4人。 も一つのおまけは、①の 限りあれば萱が軒端の月も見つ知らぬは人の行末の空 という後鳥羽院の御製を順徳院御製として引用したことについて。 貴顕の中で綱渡りのような世渡りをしていた世阿弥が、 歌の作者を間違えるなんて迂闊なことをするわけがない ならば 世阿弥はこうする事で、順徳院に重ねて、後鳥羽院等、流され王達を まとめてシテの座に据えた…ように私には見える で、そうするにあたって、崇徳...

金島書を読みはじめてみた3 心遣いの名人の続きの続き

 お能が素晴らしくって、感動の勢いで詞章を検索して読むと アレ?こんなだっけ⁇って思うことが度々ある 謡曲自体読めば素晴らしい。筋書きもその通り。 だけど あの時のお舞台の上では絶対違うことが起こってた。 コレってどういうこと? 言いたいことをわかりやすく伝える目的の文章と違い、お能の詞章は意味が何層にもなっていて意味が何重にも取れる仕組みがあるように見える 「金島書」の「配処」  世阿弥は佐渡島の太田海岸に上陸、 一泊して山越え 笠取峠、長谷寺 経由で新保の万福寺に泊まる。 仏の慈悲のおかげで静かな心で月を見る お墓はここだけれど、見上げるのは都の宮中の月と、心をなぐさめるのは 老人のささえか 罪なくて配所の月を見る のが昔の人の望みでしたのに私も風流心があるのだろうか 荒筋ならこんな感じだけれど、 世阿弥はその土地そのままを見るのではなく 思い出深い地名を拾って、記憶をぬり重ねる 笠取 (山)は観阿弥主演七日猿楽をした醍醐寺のこと。 10才の世阿弥が異能を尽し新熊野神社の猿楽興業のきっかけになった 長谷寺 は父観阿弥の名のゆかり 武術の「場を取る」も技術。 実際の立ち合いの場なら、場を目で見ておく、踏んでおくなど方法は色々あるが、言葉だけでするなら、このくだりで世阿彌は「場を取っ」たように見える。 神道では、鳥居や注連縄で場を区切り清め、太鼓の音で時を区切り、名を呼ぶ 寺の法会も大体そう。 場が区切られ、場が世阿弥のものになった。 そして「金島書」で世阿彌は誰を呼び出すか? 笠取山のところででてくる 山はいかでか紅葉しぬらん は古今集の在原元方「雨降れど露も洩らじを笠取の」が上の句。 元方といえば「あふことのなぎさにし寄る浪なればうらみてのみぞ立ちかへりける」 万福寺のありさまを「 来ぬ秋誘ふ山風の 庭の末に音づれて」という。 これに響くのは「 秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」古今集の藤原敏行 敏行といえば.「すみの江の岸に寄る波よるさへや夢のかよひぢ人めよくらむ」 記憶のかなたで波の音が響く。思いが届かない、かなわないという通底音 風と、水と、月と仏があって ここまでは背景。 ここまでの主語は世阿弥でもいい このあとの しばし身を奥津城処ここながら~ 月は都の雲居ぞと、思い慰む斗こそ この雲居は宮中だと思う そして見...

北野の天神がなぜ出てくるか

奈良時代から戦国時代まで、非業の死を遂げた人の祟りをどうするかは国家事業だった。 (「怨霊とは何か」山田雄司著による) 怨霊も、祟りも、生き残っている側の人間の感情の問題だ。祟ると思われた方はたくさんいるが、天神様は格別。 流され死に、死後祟り、厚く祀られて、 守り神になった。 大事な事だからもう一度言います。 守り神にまで成り上がったというのが特別。 というわけで、鎮魂の大成功例だから金島書に登場した、 のかとおもったが、それだけではなさそう 金島書の中では 北野の天神、 今は受験の神様、学問の神様 人であったときは菅原道真公、903年に太宰府で左遷されたまま死んだ。 又の名を 天満大自在天神 。 清涼殿の落雷事件で 火雷天神 、 時平、醍醐帝の死、地震、飢饉、火事、疫病、純友、将門の乱、前9年の役をおこして、 太政威徳天 と、やらかした祟りが増えるたび、神名が増え位が上がり、 死して90年で、太政大臣を追贈されて、善神となった。