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11月, 2024の投稿を表示しています

西行と崇徳院 御身代わり

崇徳院は、日本三大怨霊のひとり。 1156年の保元の乱で後白河院に敗れ島流しになった。 後生を願い、自筆で3年がかりで五部大蔵経を書写した。 せめてこれを都近くに置いて欲しいと願ったが断られた。 無念の余り、舌先を食い切った血で經の奥に「日本国ノ大悪魔」になることを書き付け、生きながら天狗の姿になって祟りを引き起こした(「保元物語」1230年代) 薨じたあと、有名歌人西行がおまいりして3首和歌を詠んだ。 それが説話になり、 江戸時代には秋成が『雨月物語』「白峰」を書いた。 その崇徳院はかなしく哀れ。 でもね、実物にはそうじゃなかったらしい。 崇徳院と、同時代でおつきあいのあった人たちの和歌を辿ると、 崇徳院はお付きの女房2人と寂しく暮らし、心細いまま後生を願って、病んで死んだ。 ドアマット属性。 で、崇徳院が薨じて60年以上経った1230年代、『保元物語』ができた。 その頃は実に世情不安。 で、世情の不安の原因をハッキリさせたいとみんなが漠然と思っていた。 アレだ!ってみんな思ってたから。 だけど、今の上つ方のお名前を出すのは憚られる。 そこで、歌舞伎の忠臣蔵で江戸時代の吉良上野介が、 鎌倉時代の高師直の名に置き換えられたように時代を遡って仮託しました。 仮託されたのは誰か? 後鳥羽院です。 1221年、承久の乱で負け、隠岐島に流されたまあ強烈な人。 生霊としても怨霊としても大活躍。 と、ここまでは山田雄司著の「怨霊とは何か」からざっくり。 で、亡くなる13日前に水瀬親成のために書き残した『 後鳥羽院置文案文』の一部 「我は法花経にみちひかれまいらせて、生死をはいかにもいてんする也。たゝし百千に一、この世の妄念にかゝはられて、魔縁ともなりたる事あらは、このよのため障り為す事あらんすらん」 なんか、もう、大変な方でございます。  で、朱の手形押すのよ。それも両手。 で、この人が順徳院のお父さん 世阿弥をながした 足利義教 も天災。後鳥羽院も天災。 上つ方が天災だと、世は荒れる。戦も地震も大火も起こる で、『金島書』の「泉」で世阿弥は順徳院をシテの座に据えました。 で、世阿弥も本当の対象の代わりに前時代の人に仮託するという作法をしてたとしたら、 本当に成仏して欲しい無念を抱えた人は誰でしょう?  

北野の天神がなぜ出てくるか

奈良時代から戦国時代まで、非業の死を遂げた人の祟りをどうするかは国家事業だった。 (「怨霊とは何か」山田雄司著による) 怨霊も、祟りも、生き残っている側の人間の感情の問題だ。祟ると思われた方はたくさんいるが、天神様は格別。 流され死に、死後祟り、厚く祀られて、 守り神になった。 大事な事だからもう一度言います。 守り神にまで成り上がったというのが特別。 というわけで、鎮魂の大成功例だから金島書に登場した、 のかとおもったが、それだけではなさそう 金島書の中では 北野の天神、 今は受験の神様、学問の神様 人であったときは菅原道真公、903年に太宰府で左遷されたまま死んだ。 又の名を 天満大自在天神 。 清涼殿の落雷事件で 火雷天神 、 時平、醍醐帝の死、地震、飢饉、火事、疫病、純友、将門の乱、前9年の役をおこして、 太政威徳天 と、やらかした祟りが増えるたび、神名が増え位が上がり、 死して90年で、太政大臣を追贈されて、善神となった。

(薪の神事)名無しの章  世阿弥の本願

  こ の名無しの章では 世阿弥のやってきた申楽の意味が 宣言されているように私には見えます。 ここでは水のイメージは遠い。 前の章「北山」で祝福された海原の水は、ここでは天に上がって雪と降り 翁の息が、とうとうたらりたらりらたらりあがり ららりどうの言葉になり、 唱和する声が重なり、滔々と落ちる瀧水となる。 それから、最後の千鳥の足跡が残る砂浜の向こうに海が静かに鳴っています さて、『金島書』最後の名無しの章は、故郷奈良に戻ります そのざっくり訳と、主語に当てはまりそうなのを探してみました。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ そもそも、よく治まっている時代の歌は、安らかで、楽しい。これは政治が穏やかであるから。だから歌は天地を動かし、鬼神の心を動かすというのである 「きさらぎの初申なれや春日山、峰とよむまでいただきまつる」  源俊頼(歌人、篳篥の名手) 2月の最初の午の日であることよ、春日山の峰に鳴り響くまで(神を)崇めもうしあげる 音楽や舞を奉じるのが昔からの神の祀り方であると言ってるのがこの和歌。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 春日山のてっぺんまで鳴り響くのは何か? 最初に思い浮かんだのは、若草山焼き。山肌の炎も、浮き立つ人等の熱と祈りも、峰をとよもすのは思い浮かべやすい。が、1月中に若草山を焼かないとよくないことが起こるという伝承が世阿弥以前からあったのでこれではない。 初午のお祭りは稲荷のお祭り、春日大社にお稲荷さんはおいでかなと調べたら、若宮おん祭りにご奉仕される大和士の精進潔斎所である大宿所に、春日大社の末社、大福稲荷神社があった。今も2月の初午の夕刻春日大社の神主さんが神事をなさっているそう http://narabito.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-c941.html  「春日大社大宿所と大福稲荷神社」鹿鳴人のつぶやき より 大福稲荷神社のある大宿所は、今、南都楽所のお稽古場にもなっている。世阿弥の文脈を辿ると、峰まで鳴り響くのは神事で奉納する音楽や舞。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++  「きさら...

金島書を読んでみた7 「北山」その2 佐渡は悟りの地

「北山」訳のつづきです (ここからの「国」は畿内五国とかいうときの国のように見える) (が、それより昔)伊弉諾尊と伊弉冉尊が天の浮橋から、 光のように差し下ろした瓊矛から滴った 淡路の国 がはじまり。 淡路島 は南海にあり、 この 佐渡島 は北海にあって(真言密教の)胎蔵・金剛の両部として、揃って南北の海に浮んでいる。 (淡路島と 佐渡島 が)海の四方の涯までを守り、 七葉の金の蓮の上から浮かび現れる国として、 この両島を神の父母とも呼ぶということだ。 それで北野天満宮の御歌にも、   「かの海に 黄金の島 のあるなるを、その名ととへば 佐渡 といふなり」とよまれている。 この御神詠も神のお力がはっきりとあらわれている。 不思議に美しい 佐渡の国 の名は永遠に知られている所である。  『南贍部洲大日本国正統図』 ( 東京大学総合図書館所蔵 ) を改変 さて、その神代の伊奘諾尊・伊奘冊尊の二柱の神は、 今の世では別々に人々を救うための権現の形をとられた。 伊奘諾尊は熊野の権現として現れ、南山の雲に種を蒔いて国家を治められた。 伊奘冊尊は白山権現として現れ、北海で種を収められた。 そして、白山権現は悟りの月の光として、 この 佐渡の国即ち北山 に、毎月毎日今もお姿を現してくださるので、 土地は 豊かで、民も徳厚く、 厚い雲がかかった白山も伊奘冊尊も、この 佐渡 の海に御鎮座くださるということです そもそも、このように神のご加護がある 佐渡 の国 に、 少しでも我が身を置く事はいつの前世の縁だろう。 まあ良い、私のようなさだめなき身をも、住ませて下さり、 (水が澄み、心が澄むまま) そのままに生きとし生けるもの、諸々の仏も共に有り、 山はおのずから高く、海はおのずから深く。 「語り尽す山雲海月の心」という言葉のように、 まことにしみじみと趣深い 佐渡 の海。 見渡す限りの緑の山は季節の移るにつれ彩られる。 その国の名を尋ねれば、 佐渡 という。 この 黄金の島 は不思議に美しい所です。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ ここでは水は、 掻き回せば大地が迫り上がる始原の海であり、 底に大日如来を蔵し、金剛界胎蔵界あわせて含み 日本国土を覆うほど巨大な黄金の蓮華が開く 神は遊び、水は澄み、海深く、それぞれのものがそのまま...

金島書を読んでみた7 「北山」その1 地名

中世の神仏混淆のイマジネーションはなかなか大きいです。 大日の金印は独鈷だという説もあります また日本列島は独鈷の形という言説もあったそうです 長いので、この章は続き物になりました。 で、「北山」の意訳 そうこうしている間に、この土地に昔から住む老人に会って佐渡の秘密を聞いておいた。 そもそもわが国の国土は、この世の果の粟粒ほど小さい地にして世界の始まりの地。 天照大御神のご子孫の正しく系譜を引き継がれた方を、敬い仕えることが続いています   それで、この国土の名を尋ねると、神道では諸説あり。 まず、「大日本国」という名は、青海原の海底に、大日の黄金の印が出現したことから、後になって「大日本国」と名付けたようです。 暫く国の名について考えてみる。その国名も沢山あるから、 そのあれこれについて、おおまかに語ることにしよう。 (こ の「国」は畿内五国とかいうときの国のように見える) この国の初めは、大国主神が治めてきた豊葦原水穂国が、天照大御神の御子に譲られた国譲り です (この行の国は大日本国、秋津洲)   続く ざっくりの意訳ですが、訳しているうち、 北朝ダメって言っているように読めました。

流刑地はどこ

『南贍部洲大日本国正統図 』 ( 東京大学総合図書館所蔵 ) を改変 世阿弥を流した先のことについて  1232年「御成敗式目」は日本初の武家法。 で、その追加法に流刑についての資料がある(渡邊大門「流罪の日本史」ちくま新書) 1 遠流人国々の事 伊豆 安房 佐渡 隠岐 土佐 以上遠流 信濃 伊予 以上中流  越前 安芸 以上近流 此外近代遣国々 上総 下総 陸奥 越後 出雲 周防 阿波 これを行基図に色をつけてみた 遠流    中流   近流    此外近代遣国々 千葉に送ることが死刑に次ぐ刑罰なのがショック 安房も上総も下総も良いとこだよ 鯵の開きあるし、菜花も蚕豆も、サバも美味しいよ 暖かいし、中パンあるし、海越しに富士山見えるし、、、、

金島書を読んでみた6 「十社」

  「十社」をざっくりまとめると、 国立民族博物館 モンゴルシャーマン装束 前半が出来事、 後半が、一曲を奉納したその唱え言。 本地垂迹の考えにのった神と人の蜜月のような関係、それによって増した神の力が日本国へ祝福を与える +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ そんで、なんちゃって訳      (前半)さて、戦さがおこって国中が不安におののいている、 私が流された場所でも戦闘があったので泉というところに移り住んだ。 秋過ぎ冬も暮れ、永享7年の春になった。 ここには佐渡ヶ島の十社の神がおわします。神をうやまい信じて、一曲を奉納する (後半)そもそも人はこの世界の神の道具 神は、神主のご奉仕の仕方次第で威光を増し、身の衰えを最上の悟りで回復し、 人等が何事もなく長生きできるよう守るとお誓いくださる ほんとうにありがたい御ありさまです    神のみ心のままに、歩みを運ぶ宮めぐり 誠に、仏が光を和らげ塵の様な人の世に                     神の御姿で降りてくださるのが成仏の可能性を得る始め、 釈迦が人等を救うため八つの相を示して下さったのは 人等を救うことのおわりであるに違いない。     まことに、日本国という淨い垣根のなかにこそ、 ご治世は輝き、ずっと国が豊かで、ずっと民等が裕福に栄えて、宮中はずっと春の如く、 そして十の社は明るく澄んでおはします ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 「神のまにまに詣で来て、歩みを運ぶ宮めぐり」 この言葉を打ち返し唱え, 舞いはじめ、舞ううちに時間と空間が広がる。 今、世阿彌唯ひとり舞を奉じる佐渡ヶ島の泉から、 例えば熱田、例えば伊勢、例えば、熊野。 嘗ても、あの時、此時も、 人等が神のもとに群れをなして、祈りを奉じようと蟻の如く参詣する幻。 そして神力に満ち満ちた神に、護られ寿がれた、輝かしい人の世界、の幻。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++...

音便ならぬか…………改訂しました

 「金島書」「金島集」 なぜ、この名かについて 佐渡の金山が有名になったのは江戸時代だけど 金山が盛んでなくても、金属は露頭することもあるから 山の中でキラキラしてたかもともおもうが 祈祷書、キトウショ、キントウショ…金島書 ならないよね。       ……………2024/11/7 金で例えられるもの… 仏の光。 例えば欽明天皇が受け取った仏像は「 西蕃(百済)の献ずる仏の相貌は端厳しけれど、全く未曽有なり 」って、金色に輝いてた。 稲。秋の田んぼの金色 伊奘諾尊が種を蒔き、伊弉冉尊が種を収めるとある。この種が稲ならば豊作の輝き そういえば、近所の弥彦神社の御祭神は稲作と漁労を持ち込んだはず、白山の菊理姫は?……………………2024/11/12 調べたら有りました   新潟総鎮守 白山神社HP 「世界遺産に登録となった佐渡金山と新潟の総鎮守・白山神社」 https://www.niigatahakusanjinja.or.jp/newsletter/r6spring.html 佐渡島の金が、はじめて文献に登場したのは、平安時代後期の説話集『今昔物語』。能登国から訪れた人々が、佐渡西三川から砂金を持ち帰った話が記されています。黄金の島・佐渡島の存在は、このころすでに、京の都まで知られていたことになります。 だそうです。金属の金が出るから金島です ついでに、佐渡島の長谷寺に白山権現を祀っていました。 また佐渡島の熊野権現を順徳院はお参りしていたようです……………2024/11/13

金島書の時間軸『島流し年表』

金島書の時間軸を年表にしてみた 題して『島流し年表』 「金島書」の主役の順徳院。 御鳥羽院、土御門院、順徳院3人セットで承久の乱で負けて、配流された。 主犯の御鳥羽院。 1185年守護地頭が諸国に置かれて、収入が少なくなって、 「1192つくろう鎌倉幕府」で武士の権益を守る集団ができ、 平家と共に宝剣は海の藻屑、2種の神器で即位し、と飢えのある方 和歌、歌合に励み、良かった昔に戻りたいと乱を起こし負けた。 順徳院はその駒みたいな、その兄の土御門院は保険みたいな立場かと 世阿弥が「金島書」を書くにあたっては、 説話集の中の西行と崇徳院の影響があったのではと思う  年表には入れなかったけど、1番遠くて古い白居易は、唐の772年から846年 国内で1番古いのは、高岳親王で799年から865年、 次が僧正遍昭で816年から890年 そして菅原道真で845年から903年。 何だか重なるこの時代は藤原氏の他氏族排除が成功した時代。 で、高岳親王と菅原道真公はそれで割喰った方。 で、菅原道真公の存在の大きさについては後程。

金書を読みはじめてみた5 「泉」 ここでシテが出てくる

「泉」の内容をざっくりまとめれば、 又、西の山本の泉という集落は、流された順徳院のいらした所。 順徳帝は前世の功徳で帝にお生まれになったのに、流罪になって 田舎の、屋根に羊歯がはえるあばらや、雨が降ればぬかるむ庭に暮らされるとはお気の毒 どうぞ心を澄ませて極楽往生の道をおすすみ下さい これに和歌が8首書きこまれて、イメージと意味が重層的になっている( 本文引用部分 ) ① 限りあれば萱が軒端の月も見つ知らぬは人の行末の空 (後鳥羽院、世阿弥は順徳院作として引用) ② 天離る鄙の長道 ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ(柿本人麻呂) ③ 夕立 のなごりばかりの 庭たづみ 日頃もきかぬかはず鳴くなる(順徳院) ④ 下くぐる水に秋こそ通ふらし結ぶ泉の手さえ涼しき (中務) ⑤ 人ならぬ岩木もさらに悲しきは美豆の小島の秋の暮れ (順徳院) ⑥ 樒つむ山路の露に濡れにけり暁起きの墨染の袖 (小待従) ⑦ 薪こる遠山人は帰る也里まで送れ秋の三日月 (順徳院) ⑧ 言うならく奈落の底に入りぬれば刹利も首陀も変わらざりける (高丘親王) ⑨ 蓮葉の濁りに染まぬ心もて なにかは露を玉と欺く(僧正遍昭) ①②で流人の感概、軒の月から遠い空、海から彼方の懐かしい故郷 ③④⑤は叙景、夕立からの水たまり、 そして地下からこんこんと湧き水、「涼しき」の語が出、 「悲しみ」とともに水量が増えて川 ⑥で山の樒、出家者と朝日、ここでも露 ⑦ で秋の山里、そして秋の月(月は寂かな心のシンボル) ⑧世間がいうには、地獄に落ちれば王も奴隷も変わらなかった。 と怨みの根をダイレクトに斬り ⑨濁らないで、怨まないで、「涼しき道」🟰極楽往生してね で、露がキラリ 歌を辿ると物語になってるように見える 何の物語か そしてね、 登場する9首7人の歌人のうち、流された又は冤罪を被った人が 御鳥羽院、順徳院、柿本人麻呂、高岳親王の4人。 も一つのおまけは、①の 限りあれば萱が軒端の月も見つ知らぬは人の行末の空 という後鳥羽院の御製を順徳院御製として引用したことについて。 貴顕の中で綱渡りのような世渡りをしていた世阿弥が、 歌の作者を間違えるなんて迂闊なことをするわけがない ならば 世阿弥はこうする事で、順徳院に重ねて、後鳥羽院等、流され王達を まとめてシテの座に据えた…ように私には見える で、そうするにあたって、崇徳...