昔、能楽師と新劇と小劇場の俳優が共演する舞台を見た。
皆さん、名のある手練れの方々。
その上、手持ちのやり方を捨てて、
基盤の違う人と、一緒にこの場で何かを作り上げようという、
気前の良い、勇敢な方々。もちろん、面白かった。
で、出てる方々はみんな強烈な個性でらして、その個性とは別なレベルで、
能楽師と、他の方々の間に、よくわからないけど違いがある。
「居る」も、「語る」も、「言葉を歌い上げる」も、「伝える」ことも、
同じ場で、同じことをしているのを見て、
新劇や小劇場の俳優さんの上手さ、面白さは、
自分のいるこの地面の地平線の彼方か、山の頂上。
お能の方は違う地面に居られるようにみえた。
それは、良い悪いではなくて、「違う」と言うこと。
で、その「違う」声で語られる言葉の力に魅せられた。
さて、
西洋の歌は、一つの音を豊かに、美しく響かせる、
一方、謡や義太夫は、一音に複数の音が含まれるように思う。
謡を間近に聴くと、息の強さ、ボリュームもさることながら、
その響きに圧倒される。それは一人パイプオルガンさながら。
で、自分の声が単音でなくなるといいなぁと、
思って義太夫の稽古を数年、
どうにか声に、太棹三味線のビーンとなる的な感じの響きが付いた。
その後、縁あって体操を教えることになって、
指導員試験の時、「声が泣き節なので直すように」と指摘された。
そう。
体操指導には伝統的な声はいらない。
いったん作った響きは、どうやって消そうかと試行錯誤。
とりあえずは喉周りを固めて、消した。
だのに、体操指導員の立場から考えると、
「固めて解決!」は緊急避難。
「固まる」は老化なので、
固めることを選ぶと、忘れた頃に勝手に老化が進んでるし。
喉周りが固くなると、声が硬くなるし、唾液が出なくなる。
方法として「固める」は次善、と。
義太夫や謡の聲と今の日常の声とは
繋がりが切れているのではというお話です。、
明治時代、ギメさんが声明を聞いて
階段とくねくねみちのお話もあるけど、
まだ続きます。
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