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2月, 2021の投稿を表示しています

思い出の音

 結婚するとき、 つれあいの故郷にいってふたつめの披露宴をした。 宴もたけなわになって、 ご近所さんが木遣で祝ってくださろうとすると、 みなさんがわらわらと立ち上がり、列をなして、 揃って何かを引く手つき、そして合いの手が掛かる。 木遣りの良い声と、酔いのまわったザワザワ感と、 ばらばらのようで要所で揃った振りと‥‥ 格別に素敵だった。 あれって、お祭りの山車を引くときの様子。 と、後でつれあいから聞いた。 木遣りの音頭で、船の形の山車をみんなで引いて、町を廻る 漁が盛んな頃、道が人手で溢れかえっていた、 その頃から一緒に過ごした時間のいろんなものがのっている。 ずっと、一緒にやってきたことだから、 言わなくても、でてきて、 並んで、山車を引く。 それが当たり前。 ほんと、素敵だった。

好き!の伝播力

その人が楽しんでるとか、本当に好きなのは、よく伝わる。 そんなに面白いかしらって、興味をそそられる。      お城の先生がテレビで、 お城やお堀に向かって嬉しそうに小走りしてるお姿や、 お仲間と説明小芝居なさってるのを、 嬉しそうだなとついついみてしまい、 つい、お城に興味を持ってしまった。 以前はただの地面の凹みだったものに、空堀かしら? なんて、思ったりする。 佐倉城址公園や、鹿島には、本当に空堀があった。 コレもしかして堀じゃない? なんて言って、、、、当たりなのって嬉しい。 今度、大阪行ったらせっかくだから、大坂城の石垣をみようとか 熱田神宮いくときに、名古屋城行こうとか、 うっかり思う。 好きは移る。 伝播力最強。  

上手くなれないのは部品がないから

昔の話、 義太夫の稽古を始めた。 その時、お師匠さまは80過ぎ、私は30代 弾き語りなさるお師匠さまの 前に座って、真似るのだが、 ほんの5分で汗だく、息切れ、ヘトヘト。 真似るどころか、声が出ない、息が続かない。 あゝこれは、うまくなるどころじゃない 声が続いて稽古できるようになるのが先 しばらく笑われよう 頓狂な声で上等、フルスロットルで蝉が鳴くようにミーンミーンだわ、 で 続けること3年。 大きな声で、30分から45分語りについて行けるようになった。 さて、息は続くようになった。 さあ、お師匠さまの素敵な節を真似よう! でもうまく行かない。 素人弟子仲間のを聞いても、おんなじふうに違う。 色々試行錯誤して、 また、邦楽のお若い方々が西洋音楽とコラボした後、 妙にメロディアスというか音が流れるようになったのも、だいぶ見聞きしたのもあって、 邦楽と西洋音楽は、根本のところが違うんじゃないか? 洋楽に慣れた私の耳は、お師匠さんの音の展開を拾えないんじゃないか?と思いつき、 洋楽を聴くのをやめた。 ストーンズも、カザルスも、唱歌も、ナツメロも歌謡曲も、お預け。 続けること3年。 さて、節が上手くなれたのやら、なれかったのやら それは別にしてお稽古が楽しくなった お能や歌舞伎の詞章も聞き取れるようになった 邦楽の良さがちょっとわかるようになった。  で、 どこでもドアで、義太夫のお稽古を始めたときの自分に会えて、 お稽古まえに、私と10分体操しましょうと、教えることができたら、 30分呼吸が続くのに、3年もかからなかっただろうにと思う 腹に息を吸うの肚の場所と お尻をどんと落ち着けてはその場で。 肚に息を吸うは3回位で、 ゆるむように語るは、思い込みを変えることだから何ヶ月かかかるか? で、息をハラで吸うゆるむように語る方向で、 実際、義太夫を語りつつ息が続くようになるにはもうちょっと時間がかかるかも。 どこでもドア、あると良いね。  

走れる人と走れない人

  これから話すのは、 走るのが不得意な人と得意な人は、 やってることが違うのねという話。 六尺棒を持って砂浜を走るっていうのをやった時、 男の子連中が何キロも疾走していたその一時間、 私は100メートルも進めず、 砂にまみれて安倍川餅みたいになっていた。 だって走るの苦手だもの。好きじゃないし。 体育館の広いフロアで同じ事をしたとき、 六尺棒を持ってどんどん加速して 足がドンドンういてくるように走っている人たちを横目に、 六尺棒を持つ腕が痛いわ、重いわ、 これで走れる気がせんと、 のたのたしていた自分を思い出す。 今思うと、六尺棒が前に倒れるその モーメントを 、 走る時の加速に転換させることができない私は 手で棒のモーメントを引き受けて、 で、それの苦痛に耐えながらトコトコと前に進んでたのであったと。 上半身と下半身の運動が繋がるようにやっとなって、 やっとそれが実感できた。 十数年経っちゃったけど(^^)

わざとじゃないけど、変わっちゃうのよ

樹齢 何百年かを越えている木々の下で、 人がとても小さな存在に思える。 ハイキングやお詣りにいくのは、 そんなふうにホッとしたいからなのかも。 飛鳥辺り、瓦を拭いた大きな建物をつくり始めたそのどこかの時期に、 こんな、手付かずの森を切り開いて、 切った木の並び通りに柱にし、その地の土を捏ねて瓦にしたことがきっとある。 たとえば奈良の法隆寺とか。 だって、運ぶの大変だもの、お金かかるし。 たとえば、法隆寺ができる前、あの場所に、 このような年経た樹々の森があり、 そこで、畏れを持って生きる人がいて、 その人たちが、 半島から来たキラキラしい金銅仏も拝むようになった。 だのに、仏塔は木造。 つくる仏もだんだん金銅仏から粘土や木造にしてしまう。 ここで、御柱や心御柱の事を思い出しちゃうのですが‥ いかがでしょうか. 元は、何を畏れ、どう祀っていたか、本人も意識してないけど、 自然とそうしちゃったんじゃないかなとか 樹齢数百年の木々の下の空気感の中でおもった。

見たいように見る癖

ちゃんと見ている、聞いているつもりでも、 見れてない。聞けてないということがある。 そんなときにやっと、 聴く耳、見る目にバイアスがかかっているのに気づく。 バイアスは無意識で、本人は気が付けない。 バイアスは、生まれた場所とか、家とか、家族とか、学校教育とか、 社会とか、自分のいる集団とか、会社とかで、 あたりまえのこと、空気のように、息を吸い吐きするように、 普通に思ってることなどに由来するのだと思う。 異文化にあうとか、 その、バイアスによってやったことや,やられたことで、自分が追い詰められる、 とかがないと、 なかなかバイアスがあること自体に気が付けない。 西洋のデッサンは、 人の形を筋肉の塊として捉えようとする、 ものの量感を描く傾向があるように見える。 現実世界では、顔を囲む一本の輪郭線なんて存在しないんだけれども、 それを探し出して書くのが日本の絵だ。 上の絵は、明治初期の、亜米利加婦人を描いた浮世絵をうつしてみた。 同時期の フランス人の日本旅行記 の絵と比べて面白い。

快適のかわりに手放しちゃったものがあったような

  ヘッドフォンで音楽を聞く。 一人でどこでも音楽を楽しめるようになる。 ポケットに音楽を入れどこへでも行く。 画期的なことだった。 高校生が皆、これを持つようになった頃、 夕暮れに、丘の上から眼下のサッカーコートをみていた。 ヘッドホンで音楽を聴きながら見ていると、部活の風景が映画のよう。 曲が変わると違う風景に見える。 それがおもしろくて、つぎつぎに曲をかえながらサッカーをみていた。 それは、世界の中心に自分がいて、曲を変えることで意味を塗り替えることができる快樂。 これは、自分の中だけの出来事で、 外界になにか働きかけたわけじゃない。 だのに、人は自分の感覚で世界を受け取るしかないから、錯覚するね。 ちょうどその頃、 教室のゴミ箱の周りが汚れるようになった。 暫くして、ジュースの紙パックの殻が、 教室の長押の上に並ぶようになった。 目の前から消えると無いことになるという感覚なんだろうか? 他の教室でも同じだった。 たまたま時期が同じだったのか、リンクしているのか。 わからないけど、強く覚えている

茫然、だけどうつくしいのだと解らせられた。そして、どーも私ら魔女のうかららしい

もう24年になる。 国立劇場で見た「祇園祭礼信仰記」の雪姫は、未だ忘れがたい。 就職してから、歌舞伎の舞台を毎月、昼の部、夜の部と見るようになって、 この時も、3階から見下ろしてた。 主役の雪姫を、お年を召された、熟練の方がやってらして、 始まってしばらくは、 おじいさんが白粉塗ってる感があって、 私は、そのお化粧のピンクの強さが気になってしょうがなかった。 だのに、お話に吸い込まれるように見ているうちに、 おじいさん感が霧散して、 舞台の上では、綺麗な綺麗なお姫様が震えている。 花冷えの中、桜の花びらが舞って、散って、 生身の女ではありえない美しい存在が眼前にあって、 3階まで、桜の匂いが届くよう。 劇場の外に出てからも呆然としていた。 自分の理解の外のことにであった圧倒的な体験だった。 その何年か後、シェークスピア見に行って、 マクベスの魔女のセリフ 「きれいは汚い、穢いはきれい」を聞いて 当たり前じゃないか、 皮一枚、奇麗なんて味がない。 と思った私は、 シェークスピアの世界観では、魔女側に置かれるのでしょうね。  

からだをかえる。自由と、気持ちよさが増える方向へ

今まで、 どのように暮らしてきたか、 どんな運動をしてきたか 立つときの癖、 歩くときの癖、 寝る時の… そのほか、たくさんの癖… そして、自分の体をどう感じているか カラダや、運動をどう思ってるか そんなこんながよりあつまって、 今のからだがあります。 ということは、 そんなこんなの 何かを変えることで これから、 からだは、変わるということ。 どうせ変えるなら、 川鍋暁斎が描く、 踊る女 のように、 柔らかく、おおらかで、明るいカラダ はいかがっすか?  

人はバリエーション豊か。

初めて、名古屋武道館に行ったときのこと。 新幹線の改札を出た所に、 みるからに立派な紺ブレザーの3人。 この方々が審判だったら、 県大会以上の大きな柔道大会、 ならば、一番大きな武道館に着くはず。 と思いついちゃって 調べもせずに、跡を追いました。 初めて名古屋行って浮かれてたんだな。 バスから、武道館らしき建物が見えたときには ホッとしました。 この方々も、私達も、羽生結弦選手も、 赤ちゃんの時があって、 骨の数、筋肉の数でいったらほぼ同じ。 と思うと、ほんとに不思議。 何を選んで、繰り返したかで, 形も,性能も,変わります。 もちろん、天分の差もあるけどね。  

女学校の体操、兵隊さんの体操

「ファウスト亅は、学習院女子など、 女学校からの伝統がある数校に、今も残るダンスです。 百年余続いているので、このダンスを母も祖母も 曾祖母も踊ったというお家もあります。 体育祭で、「ファウスト亅の出番になれば, 体操着の上にスカートをはいて整列したものです。                                         ジャパンアーカイブスより 国民保健体操もはじまり、 そして、兵隊さんの体操のかわりに、現代の 自衛隊体操。 明治の皆さんがめざした身体の、ある意味完成形かとおもいます。             陸上自衛隊 広報チャンネル より これらの体操の共通項は 手足を伸ばして、 はっきりくっきり、 元気よく動くことができる。 皆と動きとタイミングを合わせることができる つまり、並んで、行進ができる身体です。 そして、日露戦争の頃には隊列を組んで行軍ができるようになりました。 そのように社会全体に、 身体を鋳直す動きがあると 踊るからだも変わってきます。 たとえば、おわら節。 昭和のはじめ頃、おわら節の最古の映像をご覧ください。 https://www.nhk.or.jp/toyama/owara_movie/ NHK富山「おわらの最古の映像か?」

明治8年、「たいそうてなんな?」と伊沢さん(伊那生まれ、25才)は思いました。

タイトルの 伊沢さんは、 アメリカに留学した後、 体操伝習所に勤め、 アメリカから来た体操の先生に体操を習います。 体操伝習所から始まった体操は、器具を使った体操だけれど、 動きとしては、上の絵の感じ。 姿勢を鋳直したい感じですね。 富岡製糸工場の女工さん達が、 糸繰り場の機械の間に並んでしてる体操も こんな感じです。 ................. 佐倉の城址公園の中にある、国立歴史民俗博物館で 日本代表としてオリンピックに出た台湾人選手の特別展示がありました。 『東アジアを駆け抜けた体ースポーツの近代』というタイトルで 前半は、日本にスポーツや体操がどのように広まったかの展示です。 下のリンクのページの中頃、体操を曲芸と思ってたことがわかる刷り物があります。 広報画像③ 「西洋ウンドヲアソビ」  1860年代 国立歴史民俗博物館蔵 https://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/special/index.html#special   (国立歴史民俗博物館の特別展示 東アジアを駆け抜けた体ースポーツの近代ー  2021年1月26日から3月14日まで) そしてそのパンフにあるまとめ・・・・ スポーツの概念が日本に入ってきたのは19世紀半ばです。 「 剣術」「柔道」「養生」などのこれまでの術や体のあり方 を 「体操」「スポーツ」「保険衛生」などの新しい言葉と価値観 が塗り替えていきました。 この大きな変化をもたらした背景には 学校の普及 と 国民皆兵制度の導入 がありました。 小学校の運動会は地域社会の娯楽としても機能しました。  「第一章 近代史の中のスポーツ 」より

明治6年  小学校の体操

 江戸の庶民は、並ぶのも行進も苦手。 それでは兵隊さんとして困るので、 明治政府は、整列、行進の練習を学校でさせ、 同時に体操で国民の姿勢(猫背、内股、がに股)を 西洋式の姿勢に鋳直し、体格を向上させようとしました。 それが学校で学ぶ、体操の始まりです。

今、やってることから、焦点をずらさない

豆腐と鳥の塩鍋のアクを取りながら、 「日本料理では綺麗な味が大事なんです。」 とおっしゃる。 「こういうときに、中国料理では、フランス料理では、という話は無駄。何も産まない。」 美しくさっくりとおっしゃる。 ホント、土井先生、素敵!  

階段と、くねくねみち

加藤登紀子のインタビュー 「ドレミファソラシドで、私達は考えるじゃないですか。 ドレミファソラシドというのは、 ヨーロッパで、鍵盤のあるピアノがあって、平均律という音階をちゃんと作った。 その時に音というものに階段をつけちゃったんですね。 ここはドレミ。ミとファの間は半音とか、それを決めちゃった。 ヨーロッパの音楽では、階段じゃなきゃいけないし、階段通りやらなきゃいけない。 だけど本当は音程というものは全部繋がっている。 声明もそうだし民謡も階段の意識がない。 それが大きな違いだと思う。」 三重テレビ制作「音楽の源流」~御食国の鼓動~ 第五話 郷土の歌~民謡~より  義太夫が大好きで、 だけど語ろうとすると、 歌舞伎の子役の台詞回しみたいになっちゃう人がいて、 なんでだろう?とおもっていたら、絶対音感をお持ちだった。 西洋音楽と邦楽では、パソコンに喩えてみれば、 OSがちがうというお話でした。

西洋の声、日本の声

 二人とも、高音で歌っているところ。 視線が下がっているシーンを選びました。 オペラ歌手の声は、身体を共鳴させて、 会場に放射するように拡がってゆく。 太夫の声はそれとは違うようにみえる。 ぐっと内に引きながら響く。 からだの使い方、意識の使い方が違うように思う。 オペラの歌い方では、 日本のことばは散って、聞きにくい。

明治9年、西洋の耳、日本の音

明治9年。 廃仏毀釈の時代に、来日したエミールギメは、フランスにギメ東洋美術館を作った。 ギメさんは実業家で、美術哲学、音楽に造詣が深く作曲もなさっている。 そのギメさんが、日光山輪王寺慈眼堂の法華懴法で 声明を初めて聞いた。 その印象を次のように語っている。 「声明の、多くの人間の声で作られる半音階の律動的な声は、 自然の偉大なハーモニー を連想させる。 それは、 祈りではなく存在するものの響き、 魂のコンサート、 人間を超えた世界からきたハーモニー である。 私は音のカオスを前にして強烈な印象を受け、呆然としていた。」 フランスはカソリックの素敵な大聖堂がたくさんあるところ。 そこで生まれたからには、カソリックの典礼を身に浴びて育っている。 そのギメさんの耳には、 「法華懺法」は、祈りだけれど人の祈りではない、 自然の、世界の響きとしてきこえてた。  

昭和のからだ

子供の頃、 年末や年始になると、TVに芸者のお姐さんがでる。  身のこなしが 不思議で目が吸い寄せられた。 YouTube 「三遊亭小円遊と三浦布美子 紅白」 https://www.youtube.com/watch?v=R_fT_lfga5E 昭和も終わり。 劇場で出てくるだけで涼しくなる、 綺麗な立ち姿があった。

明治のからだ 貞奴の立ち姿

 貞奴の正座の佇まいが、私たちとは違うことに気がついたので、 この人はどのように立っていたのだろうと 彼女の立ち姿を模写してみました。 これがお若い頃 これは川上音二郎と夫婦になってから。 模写すると、克明に見るので、 面白い遊びです。

明治の声 貞奴の槍さび

 ♪槍は錆びても、名は錆びぬ♪ 日本の女優の始まりというアンソロジーのCDに貞奴の「槍さび」があった。 かわいいお転婆さんだったんじゃないかな?とお人柄がしのばれる声質。 そして、唄も、三味線も、音がつよい。 太い確かな線でサクッとかいたスケッチみたいな。 手持ちの「槍さび」、昭和の名人のをいくつか聴いてみたら、細やかにつながってる感じが強い。 なんか違う。 よくわからないけど。 そして貞奴さんの座っている姿を模写してみたけれども、正座している姿の雰囲気も今と違う。 何が違うんでしょ?