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西行と崇徳院 御身代わり

崇徳院は、日本三大怨霊のひとり。 1156年の保元の乱で後白河院に敗れ島流しになった。 後生を願い、自筆で3年がかりで五部大蔵経を書写した。 せめてこれを都近くに置いて欲しいと願ったが断られた。 無念の余り、舌先を食い切った血で經の奥に「日本国ノ大悪魔」になることを書き付け、生きながら天狗の姿になって祟りを引き起こした(「保元物語」1230年代) 薨じたあと、有名歌人西行がおまいりして3首和歌を詠んだ。 それが説話になり、 江戸時代には秋成が『雨月物語』「白峰」を書いた。 その崇徳院はかなしく哀れ。 でもね、実物にはそうじゃなかったらしい。 崇徳院と、同時代でおつきあいのあった人たちの和歌を辿ると、 崇徳院はお付きの女房2人と寂しく暮らし、心細いまま後生を願って、病んで死んだ。 ドアマット属性。 で、崇徳院が薨じて60年以上経った1230年代、『保元物語』ができた。 その頃は実に世情不安。 で、世情の不安の原因をハッキリさせたいとみんなが漠然と思っていた。 アレだ!ってみんな思ってたから。 だけど、今の上つ方のお名前を出すのは憚られる。 そこで、歌舞伎の忠臣蔵で江戸時代の吉良上野介が、 鎌倉時代の高師直の名に置き換えられたように時代を遡って仮託しました。 仮託されたのは誰か? 後鳥羽院です。 1221年、承久の乱で負け、隠岐島に流されたまあ強烈な人。 生霊としても怨霊としても大活躍。 と、ここまでは山田雄司著の「怨霊とは何か」からざっくり。 で、亡くなる13日前に水瀬親成のために書き残した『 後鳥羽院置文案文』の一部 「我は法花経にみちひかれまいらせて、生死をはいかにもいてんする也。たゝし百千に一、この世の妄念にかゝはられて、魔縁ともなりたる事あらは、このよのため障り為す事あらんすらん」 なんか、もう、大変な方でございます。  で、朱の手形押すのよ。それも両手。 で、この人が順徳院のお父さん 世阿弥をながした 足利義教 も天災。後鳥羽院も天災。 上つ方が天災だと、世は荒れる。戦も地震も大火も起こる で、『金島書』の「泉」で世阿弥は順徳院をシテの座に据えました。 で、世阿弥も本当の対象の代わりに前時代の人に仮託するという作法をしてたとしたら、 本当に成仏して欲しい無念を抱えた人は誰でしょう?  

北野の天神がなぜ出てくるか

奈良時代から戦国時代まで、非業の死を遂げた人の祟りをどうするかは国家事業だった。 (「怨霊とは何か」山田雄司著による) 怨霊も、祟りも、生き残っている側の人間の感情の問題だ。祟ると思われた方はたくさんいるが、天神様は格別。 流され死に、死後祟り、厚く祀られて、 守り神になった。 大事な事だからもう一度言います。 守り神にまで成り上がったというのが特別。 というわけで、鎮魂の大成功例だから金島書に登場した、 のかとおもったが、それだけではなさそう 金島書の中では 北野の天神、 今は受験の神様、学問の神様 人であったときは菅原道真公、903年に太宰府で左遷されたまま死んだ。 又の名を 天満大自在天神 。 清涼殿の落雷事件で 火雷天神 、 時平、醍醐帝の死、地震、飢饉、火事、疫病、純友、将門の乱、前9年の役をおこして、 太政威徳天 と、やらかした祟りが増えるたび、神名が増え位が上がり、 死して90年で、太政大臣を追贈されて、善神となった。

(薪の神事)名無しの章  世阿弥の本願

  こ の名無しの章では 世阿弥のやってきた申楽の意味が 宣言されているように私には見えます。 ここでは水のイメージは遠い。 前の章「北山」で祝福された海原の水は、ここでは天に上がって雪と降り 翁の息が、とうとうたらりたらりらたらりあがり ららりどうの言葉になり、 唱和する声が重なり、滔々と落ちる瀧水となる。 それから、最後の千鳥の足跡が残る砂浜の向こうに海が静かに鳴っています さて、『金島書』最後の名無しの章は、故郷奈良に戻ります そのざっくり訳と、主語に当てはまりそうなのを探してみました。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ そもそも、よく治まっている時代の歌は、安らかで、楽しい。これは政治が穏やかであるから。だから歌は天地を動かし、鬼神の心を動かすというのである 「きさらぎの初申なれや春日山、峰とよむまでいただきまつる」  源俊頼(歌人、篳篥の名手) 2月の最初の午の日であることよ、春日山の峰に鳴り響くまで(神を)崇めもうしあげる 音楽や舞を奉じるのが昔からの神の祀り方であると言ってるのがこの和歌。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 春日山のてっぺんまで鳴り響くのは何か? 最初に思い浮かんだのは、若草山焼き。山肌の炎も、浮き立つ人等の熱と祈りも、峰をとよもすのは思い浮かべやすい。が、1月中に若草山を焼かないとよくないことが起こるという伝承が世阿弥以前からあったのでこれではない。 初午のお祭りは稲荷のお祭り、春日大社にお稲荷さんはおいでかなと調べたら、若宮おん祭りにご奉仕される大和士の精進潔斎所である大宿所に、春日大社の末社、大福稲荷神社があった。今も2月の初午の夕刻春日大社の神主さんが神事をなさっているそう http://narabito.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-c941.html  「春日大社大宿所と大福稲荷神社」鹿鳴人のつぶやき より 大福稲荷神社のある大宿所は、今、南都楽所のお稽古場にもなっている。世阿弥の文脈を辿ると、峰まで鳴り響くのは神事で奉納する音楽や舞。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++  「きさら...

金島書を読んでみた7 「北山」その2 佐渡は悟りの地

「北山」訳のつづきです (ここからの「国」は畿内五国とかいうときの国のように見える) (が、それより昔)伊弉諾尊と伊弉冉尊が天の浮橋から、 光のように差し下ろした瓊矛から滴った 淡路の国 がはじまり。 淡路島 は南海にあり、 この 佐渡島 は北海にあって(真言密教の)胎蔵・金剛の両部として、揃って南北の海に浮んでいる。 (淡路島と 佐渡島 が)海の四方の涯までを守り、 七葉の金の蓮の上から浮かび現れる国として、 この両島を神の父母とも呼ぶということだ。 それで北野天満宮の御歌にも、   「かの海に 黄金の島 のあるなるを、その名ととへば 佐渡 といふなり」とよまれている。 この御神詠も神のお力がはっきりとあらわれている。 不思議に美しい 佐渡の国 の名は永遠に知られている所である。  『南贍部洲大日本国正統図』 ( 東京大学総合図書館所蔵 ) を改変 さて、その神代の伊奘諾尊・伊奘冊尊の二柱の神は、 今の世では別々に人々を救うための権現の形をとられた。 伊奘諾尊は熊野の権現として現れ、南山の雲に種を蒔いて国家を治められた。 伊奘冊尊は白山権現として現れ、北海で種を収められた。 そして、白山権現は悟りの月の光として、 この 佐渡の国即ち北山 に、毎月毎日今もお姿を現してくださるので、 土地は 豊かで、民も徳厚く、 厚い雲がかかった白山も伊奘冊尊も、この 佐渡 の海に御鎮座くださるということです そもそも、このように神のご加護がある 佐渡 の国 に、 少しでも我が身を置く事はいつの前世の縁だろう。 まあ良い、私のようなさだめなき身をも、住ませて下さり、 (水が澄み、心が澄むまま) そのままに生きとし生けるもの、諸々の仏も共に有り、 山はおのずから高く、海はおのずから深く。 「語り尽す山雲海月の心」という言葉のように、 まことにしみじみと趣深い 佐渡 の海。 見渡す限りの緑の山は季節の移るにつれ彩られる。 その国の名を尋ねれば、 佐渡 という。 この 黄金の島 は不思議に美しい所です。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ ここでは水は、 掻き回せば大地が迫り上がる始原の海であり、 底に大日如来を蔵し、金剛界胎蔵界あわせて含み 日本国土を覆うほど巨大な黄金の蓮華が開く 神は遊び、水は澄み、海深く、それぞれのものがそのまま...

金島書を読んでみた7 「北山」その1 地名

中世の神仏混淆のイマジネーションはなかなか大きいです。 大日の金印は独鈷だという説もあります また日本列島は独鈷の形という言説もあったそうです 長いので、この章は続き物になりました。 で、「北山」の意訳 そうこうしている間に、この土地に昔から住む老人に会って佐渡の秘密を聞いておいた。 そもそもわが国の国土は、この世の果の粟粒ほど小さい地にして世界の始まりの地。 天照大御神のご子孫の正しく系譜を引き継がれた方を、敬い仕えることが続いています   それで、この国土の名を尋ねると、神道では諸説あり。 まず、「大日本国」という名は、青海原の海底に、大日の黄金の印が出現したことから、後になって「大日本国」と名付けたようです。 暫く国の名について考えてみる。その国名も沢山あるから、 そのあれこれについて、おおまかに語ることにしよう。 (こ の「国」は畿内五国とかいうときの国のように見える) この国の初めは、大国主神が治めてきた豊葦原水穂国が、天照大御神の御子に譲られた国譲り です (この行の国は大日本国、秋津洲)   続く ざっくりの意訳ですが、訳しているうち、 北朝ダメって言っているように読めました。

流刑地はどこ

『南贍部洲大日本国正統図 』 ( 東京大学総合図書館所蔵 ) を改変 世阿弥を流した先のことについて  1232年「御成敗式目」は日本初の武家法。 で、その追加法に流刑についての資料がある(渡邊大門「流罪の日本史」ちくま新書) 1 遠流人国々の事 伊豆 安房 佐渡 隠岐 土佐 以上遠流 信濃 伊予 以上中流  越前 安芸 以上近流 此外近代遣国々 上総 下総 陸奥 越後 出雲 周防 阿波 これを行基図に色をつけてみた 遠流    中流   近流    此外近代遣国々 千葉に送ることが死刑に次ぐ刑罰なのがショック 安房も上総も下総も良いとこだよ 鯵の開きあるし、菜花も蚕豆も、サバも美味しいよ 暖かいし、中パンあるし、海越しに富士山見えるし、、、、

金島書を読んでみた6 「十社」

  「十社」をざっくりまとめると、 国立民族博物館 モンゴルシャーマン装束 前半が出来事、 後半が、一曲を奉納したその唱え言。 本地垂迹の考えにのった神と人の蜜月のような関係、それによって増した神の力が日本国へ祝福を与える +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ そんで、なんちゃって訳      (前半)さて、戦さがおこって国中が不安におののいている、 私が流された場所でも戦闘があったので泉というところに移り住んだ。 秋過ぎ冬も暮れ、永享7年の春になった。 ここには佐渡ヶ島の十社の神がおわします。神をうやまい信じて、一曲を奉納する (後半)そもそも人はこの世界の神の道具 神は、神主のご奉仕の仕方次第で威光を増し、身の衰えを最上の悟りで回復し、 人等が何事もなく長生きできるよう守るとお誓いくださる ほんとうにありがたい御ありさまです    神のみ心のままに、歩みを運ぶ宮めぐり 誠に、仏が光を和らげ塵の様な人の世に                     神の御姿で降りてくださるのが成仏の可能性を得る始め、 釈迦が人等を救うため八つの相を示して下さったのは 人等を救うことのおわりであるに違いない。     まことに、日本国という淨い垣根のなかにこそ、 ご治世は輝き、ずっと国が豊かで、ずっと民等が裕福に栄えて、宮中はずっと春の如く、 そして十の社は明るく澄んでおはします ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 「神のまにまに詣で来て、歩みを運ぶ宮めぐり」 この言葉を打ち返し唱え, 舞いはじめ、舞ううちに時間と空間が広がる。 今、世阿彌唯ひとり舞を奉じる佐渡ヶ島の泉から、 例えば熱田、例えば伊勢、例えば、熊野。 嘗ても、あの時、此時も、 人等が神のもとに群れをなして、祈りを奉じようと蟻の如く参詣する幻。 そして神力に満ち満ちた神に、護られ寿がれた、輝かしい人の世界、の幻。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++...

音便ならぬか…………改訂しました

 「金島書」「金島集」 なぜ、この名かについて 佐渡の金山が有名になったのは江戸時代だけど 金山が盛んでなくても、金属は露頭することもあるから 山の中でキラキラしてたかもともおもうが 祈祷書、キトウショ、キントウショ…金島書 ならないよね。       ……………2024/11/7 金で例えられるもの… 仏の光。 例えば欽明天皇が受け取った仏像は「 西蕃(百済)の献ずる仏の相貌は端厳しけれど、全く未曽有なり 」って、金色に輝いてた。 稲。秋の田んぼの金色 伊奘諾尊が種を蒔き、伊弉冉尊が種を収めるとある。この種が稲ならば豊作の輝き そういえば、近所の弥彦神社の御祭神は稲作と漁労を持ち込んだはず、白山の菊理姫は?……………………2024/11/12 調べたら有りました   新潟総鎮守 白山神社HP 「世界遺産に登録となった佐渡金山と新潟の総鎮守・白山神社」 https://www.niigatahakusanjinja.or.jp/newsletter/r6spring.html 佐渡島の金が、はじめて文献に登場したのは、平安時代後期の説話集『今昔物語』。能登国から訪れた人々が、佐渡西三川から砂金を持ち帰った話が記されています。黄金の島・佐渡島の存在は、このころすでに、京の都まで知られていたことになります。 だそうです。金属の金が出るから金島です ついでに、佐渡島の長谷寺に白山権現を祀っていました。 また佐渡島の熊野権現を順徳院はお参りしていたようです……………2024/11/13

金島書の時間軸『島流し年表』

金島書の時間軸を年表にしてみた 題して『島流し年表』 「金島書」の主役の順徳院。 御鳥羽院、土御門院、順徳院3人セットで承久の乱で負けて、配流された。 主犯の御鳥羽院。 1185年守護地頭が諸国に置かれて、収入が少なくなって、 「1192つくろう鎌倉幕府」で武士の権益を守る集団ができ、 平家と共に宝剣は海の藻屑、2種の神器で即位し、と飢えのある方 和歌、歌合に励み、良かった昔に戻りたいと乱を起こし負けた。 順徳院はその駒みたいな、その兄の土御門院は保険みたいな立場かと 世阿弥が「金島書」を書くにあたっては、 説話集の中の西行と崇徳院の影響があったのではと思う  年表には入れなかったけど、1番遠くて古い白居易は、唐の772年から846年 国内で1番古いのは、高岳親王で799年から865年、 次が僧正遍昭で816年から890年 そして菅原道真で845年から903年。 何だか重なるこの時代は藤原氏の他氏族排除が成功した時代。 で、高岳親王と菅原道真公はそれで割喰った方。 で、菅原道真公の存在の大きさについては後程。

金書を読みはじめてみた5 「泉」 ここでシテが出てくる

「泉」の内容をざっくりまとめれば、 又、西の山本の泉という集落は、流された順徳院のいらした所。 順徳帝は前世の功徳で帝にお生まれになったのに、流罪になって 田舎の、屋根に羊歯がはえるあばらや、雨が降ればぬかるむ庭に暮らされるとはお気の毒 どうぞ心を澄ませて極楽往生の道をおすすみ下さい これに和歌が8首書きこまれて、イメージと意味が重層的になっている( 本文引用部分 ) ① 限りあれば萱が軒端の月も見つ知らぬは人の行末の空 (後鳥羽院、世阿弥は順徳院作として引用) ② 天離る鄙の長道 ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ(柿本人麻呂) ③ 夕立 のなごりばかりの 庭たづみ 日頃もきかぬかはず鳴くなる(順徳院) ④ 下くぐる水に秋こそ通ふらし結ぶ泉の手さえ涼しき (中務) ⑤ 人ならぬ岩木もさらに悲しきは美豆の小島の秋の暮れ (順徳院) ⑥ 樒つむ山路の露に濡れにけり暁起きの墨染の袖 (小待従) ⑦ 薪こる遠山人は帰る也里まで送れ秋の三日月 (順徳院) ⑧ 言うならく奈落の底に入りぬれば刹利も首陀も変わらざりける (高丘親王) ⑨ 蓮葉の濁りに染まぬ心もて なにかは露を玉と欺く(僧正遍昭) ①②で流人の感概、軒の月から遠い空、海から彼方の懐かしい故郷 ③④⑤は叙景、夕立からの水たまり、 そして地下からこんこんと湧き水、「涼しき」の語が出、 「悲しみ」とともに水量が増えて川 ⑥で山の樒、出家者と朝日、ここでも露 ⑦ で秋の山里、そして秋の月(月は寂かな心のシンボル) ⑧世間がいうには、地獄に落ちれば王も奴隷も変わらなかった。 と怨みの根をダイレクトに斬り ⑨濁らないで、怨まないで、「涼しき道」🟰極楽往生してね で、露がキラリ 歌を辿ると物語になってるように見える 何の物語か そしてね、 登場する9首7人の歌人のうち、流された又は冤罪を被った人が 御鳥羽院、順徳院、柿本人麻呂、高岳親王の4人。 も一つのおまけは、①の 限りあれば萱が軒端の月も見つ知らぬは人の行末の空 という後鳥羽院の御製を順徳院御製として引用したことについて。 貴顕の中で綱渡りのような世渡りをしていた世阿弥が、 歌の作者を間違えるなんて迂闊なことをするわけがない ならば 世阿弥はこうする事で、順徳院に重ねて、後鳥羽院等、流され王達を まとめてシテの座に据えた…ように私には見える で、そうするにあたって、崇徳...

区切るものと、そこでおこなわれることと

 現在、東博でやってる埴輪展に、 日本で1番大きい(高さ242cm )円筒埴輪が出てる メスリ山古墳では石室を二重に100本以上の円筒埴輪でかこっていて、その中で一番大きい これともう一本大きいのが、森の中の2本の大木みたいにそびえ立っていたみたい。 土と火でつくり上げた巨木のようなのが小高い丘の上に並び立つ。(出雲から奈良に製鉄がもたらされたのが3世紀) 出来た当時の人にはさぞやインパイトがあったでしょう これについて1089ブログ https://www.tnm.jp/modules/rblog/1/2020/01/28/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%9C%80%E5%A4%A7%E3%81%AE%E5%86%86%E7%AD%92%E5%9F% に図があって 「 ここまで密に円筒埴輪を並べる理由としては、聖域として区画したい意図があったのでしょう。」とある 円筒埴輪  メスリ山古墳出土 4世紀   囲った聖域の中で何をするのか 大祓詞では罪が消える最後の過程を 「速佐須良比賣といふ神 持ち佐須良ひ失ひてむ」 という。 流罪は祓い清め=罪けがれは、誰かが聖域からおわれ、流浪して消すもの 聖域の中に囲うならば、心に寄り添い心慰める。霊鎮めしかないように見える で、こちらは時代も場所も違う、でも古墳にあった踊るひと。 さきたま史跡博物館 踊るハニワ

『金島書』を読み始めてみた4 時鳥

4段目「時鳥」 ざっくりな内容は 佐渡島の八幡宮ではホトトギスが鳴かない 「鳴けば聞く聞かねば都の恋しきにこの里過ぎよ山ホトトギス」と 昔流された京極為兼が詠んだから。 時鳥も人の気持ちがわかるんだね。 講座で、小田先生からは「山ホトトギス」の歌と、歌をきっかけに鳴かなくなった話は各地にあるとうかがった。讃岐に流された崇徳院にはほととぎす塚がある https://www.city.sakaide.lg.jp/soshiki/bunkashinkou/sutokujyoukou.html 坂出市HP   崇徳上皇 この歌を誰が詠んだかググっても出てこない。 和歌集にはないと大内端恵さんの「近世宮門跡の文事 知恩院宮良純法親王を中心に」にあった。 順徳院は佐渡で、後鳥羽院は隠岐で、尊良親王は土佐で このうたをよんだことになっていて. 田舎に放り出された貴種はこんなもんだという通念があったのかな? ここで流されて、都のみやびを恋しいと思う貴人達がぼんやりとほのめかされる。 順徳院と、個人を名指さない。 ところで、和歌フィルターがかかってない私たちにはどう聞こえるだろう? https://youtu.be/pJKsawqZPTs?si=B_ei_KFimi3e8Fls 時鳥鳴き声 YouTube(ポピンズくらしサポ) ついでに、1段目の「若州」の末に引用される白楽天の琵琶行に時鳥が出てくる。 (僻地に流されて)朝から夕方まで耳にするのは、ホトトギスと猿の悲しげな叫び声 『其間旦暮聞何物 杜鵑啼血猿哀鳴』 https://youtu.be/cNpzyMykpPw?si=-eQBtK06GYJ1O3RU YouTube野生のニホンザルの声 TOKIZO

金島書を読みはじめてみた3 心遣いの名人の続きの続き

 お能が素晴らしくって、感動の勢いで詞章を検索して読むと アレ?こんなだっけ⁇って思うことが度々ある 謡曲自体読めば素晴らしい。筋書きもその通り。 だけど あの時のお舞台の上では絶対違うことが起こってた。 コレってどういうこと? 言いたいことをわかりやすく伝える目的の文章と違い、お能の詞章は意味が何層にもなっていて意味が何重にも取れる仕組みがあるように見える 「金島書」の「配処」  世阿弥は佐渡島の太田海岸に上陸、 一泊して山越え 笠取峠、長谷寺 経由で新保の万福寺に泊まる。 仏の慈悲のおかげで静かな心で月を見る お墓はここだけれど、見上げるのは都の宮中の月と、心をなぐさめるのは 老人のささえか 罪なくて配所の月を見る のが昔の人の望みでしたのに私も風流心があるのだろうか 荒筋ならこんな感じだけれど、 世阿弥はその土地そのままを見るのではなく 思い出深い地名を拾って、記憶をぬり重ねる 笠取 (山)は観阿弥主演七日猿楽をした醍醐寺のこと。 10才の世阿弥が異能を尽し新熊野神社の猿楽興業のきっかけになった 長谷寺 は父観阿弥の名のゆかり 武術の「場を取る」も技術。 実際の立ち合いの場なら、場を目で見ておく、踏んでおくなど方法は色々あるが、言葉だけでするなら、このくだりで世阿彌は「場を取っ」たように見える。 神道では、鳥居や注連縄で場を区切り清め、太鼓の音で時を区切り、名を呼ぶ 寺の法会も大体そう。 場が区切られ、場が世阿弥のものになった。 そして「金島書」で世阿彌は誰を呼び出すか? 笠取山のところででてくる 山はいかでか紅葉しぬらん は古今集の在原元方「雨降れど露も洩らじを笠取の」が上の句。 元方といえば「あふことのなぎさにし寄る浪なればうらみてのみぞ立ちかへりける」 万福寺のありさまを「 来ぬ秋誘ふ山風の 庭の末に音づれて」という。 これに響くのは「 秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」古今集の藤原敏行 敏行といえば.「すみの江の岸に寄る波よるさへや夢のかよひぢ人めよくらむ」 記憶のかなたで波の音が響く。思いが届かない、かなわないという通底音 風と、水と、月と仏があって ここまでは背景。 ここまでの主語は世阿弥でもいい このあとの しばし身を奥津城処ここながら~ 月は都の雲居ぞと、思い慰む斗こそ この雲居は宮中だと思う そして見...

金島書を読みはじめてみた3 心遣いの名人の続き

空間を区切る。たとえば御神域、茶室、 たとえば今年の奈良博の「空海展」のメイン展示 区切って囲ったものを特別な空間にする。 高台にのぼって、眼下に広がる支配地を見るのが「国見」 土地の名を呼び誉めるのは、国魂への挨拶 世阿弥のように自他の境界が薄くて空間感覚が強い人が 知らない所に流されたら何をしたいか その視点からすれば「金島書」の「若州」「海路」「配所」は 国見、国褒めして自分の空間にしようとしているところではないかとおもわれる 佐渡島の地図に、世阿弥のルートと順徳院の御座所へを書いてみました

金島書を読みはじめてみた3 心遣いの名人

講座の資料の「上の御機嫌を守らへ、酒をも強ゐ申すべき時は強ゐ、控うべき所にては控えなど、心遣ゐして、…世子、かやうの所、ことに名人なりとて、みなみな褒美あり」  (『申楽談義』)の説明で、お上が謡が聴きたいと思い「謡いを」の「う」を口にした途端、世阿弥はその場にふさわしい謡をうたいだせた というお話があった。 武術ではこういう技術を「出を取る」と言う。 攻撃の動作を目で見て反応するのと、 攻撃をしようとする意識の起こりに反応するのとでは 何秒か違う 攻撃をしようとする意識の起こりが分かれば相手に攻撃させないこともできる 「出を取る」を技術というからには、技術を磨く方法もあって、 その一つが瞑想。世阿弥は参禅していたし、 子供の頃から義満や義満に忖度する権力者の毀誉褒貶の中に 観世一座の命運を背負って日々真剣勝負していた訳で 「出を取る」能力は日々磨かれていったんじゃないか そして「出をとる」技術とセットになるのが「空間把握」 「出を取る」人は相手が自分の一部になる この時支配権を持っているのは青の方 で、『出を取る」を複数に対してする時「場を取る」になる ここで支配権を持つのも青の人 人は形がくっきりしてるけど、空間はひろい だから、意識の範囲を自分で区切る。 じゃないと情報量が多すぎて実用にならない。 安全じゃない。 次はそういう感覚の人が知らない所に流されたら何をしたいかです

金島書を読みはじめてみた2世阿弥の身体のつづき

 前回は、世阿弥が軽技系も上手かったんではないかって話 その上で二条良基が「かかる名童候ふべしとも覚えず」と言う 10才位でほけほけとして けなげってどんな児? 二条良基にもらった名前が「藤若」 藤がふさわしいなら涼しい美貌 たおやかな.涼しい気配がする人には細いセンターが通っている事が多い (センターに興味があったら高岡英夫師の「センター、体軸、正中線」を参照) センターがあってインナーマッスルを良く使えている人。 近くで言えば、野球の大谷選手を思い浮かべていただければ、 あの魅力と明るさ、可愛らしさ そして気分のコントロールのうまさがそのまま 10歳になって小さくなってって感じ そして新熊野興業から100年後の思い出話「史記抄」60代の世阿弥の姿は 「体が小さくて(中略)体のキレが良くて、話が面白くて、座を温める人」 今は60歳はまだまだこれからだけれども、 室町期の平均寿命は寿命は15.2歳平均生存年数は37.9歳から45.8歳 ですから、当時としては並外れて強健で命溢れる方だったと思います

『金島書」を読み始めてみたの2 世阿弥ってどんな身体

1374年新熊野神社で観世ー座が興業して、 ものまね芸に田楽、曲舞をとりこんで評判をとったという 今に残る田楽、( 那智の田楽(和歌山)YouTube 一銭大学より https://youtu.be/crQBxIjgcbU?si=NfrWmAJyxkVdHksI  今に残る曲舞  神楽の曲舞( ひろしま油木神楽【曲舞&猿田彦の舞(事始めの悪魔祓)】油木神楽保存会2022.10.2~第18回帝釈峡スコラ神楽共演大会(YouTube 神楽コレクション ) https://youtu.be/7KYLc2Vix_Y?si=FVhPhjKmfgDI3FYR これが室町時代のものと、同じかどうかはわからないけど、 こ観世一座の大きさを考えてみた。 唯方が4.5人、曲舞は1人から2人、田楽は最底4人、見栄えを考えるなら20人、 ものまね芸1人から4人、裏方もいるだろうし、全員が何役も兼ねるなら十数人、 芸ごとのよりあいならば3.40人 旅芸人ならば、十数人の一座じゃないかと。 とすれば10才の鬼夜叉(後の世阿弥)は、ササラもすって飛びはねて、 舞いも舞っていたのではないかな. インフラが弱いところのモノマネ芸的ダンス( Hypers kids africa YouTube ) https://youtube.com/shorts/aEkJWv8C4Z0?si=CRYavBH2_Vdks6M 世阿弥本人が言ってる「足利きたるによりて劣りたる」って体から発するこういう魅力で喝采を集めちゃったけど、望む方何性と違うんだよなって感じかもと思う一つづくー